投稿

とある一日

GWも半ば、今日はやり残していたことをひとつずつ片付けよう!と意気込んで、2週間ほどほったらかしにしていた自転車を修理に出すことにした。ある日突然後輪がパンクして動かなくなってしまったのを放置していたのだ。 その日の午後は、5月にもかかわらず真夏のようなギラギラとした日差しが照りつけていた。帽子をかぶってこなかったことをちょっと後悔しつつ、汗を流しながら自転車をひいて歩くこと15分。お目当ての自転車屋にたどり着くと、なんと「CLOSED」の看板が入り口にかかっていた。祝日はお休みだったらしい。この手の個人商店はネットで探しても休みの日が載っていないのがたまにキズだ。ついてない。 しょうがないので、その場でGoogleマップを立ち上げた。ここ以外の自転車屋さんだと、いちばん近いところでもさらに徒歩20分以上はかかる。……でも、この暑いなか面倒だが、自転車は直しておきたい。葛藤の末、仕方なく徒歩25分の池袋の自転車屋さんに向かうことにした。口コミを見るとお客さんは自転車乗りで、しかも玄人の常連さんが多そうだ。先ほどの二の舞になることを恐れて、開店しているかどうかを確かめるために店舗に電話をかけたが、いくらベルを鳴らしても呼び出し音だけが鳴り響く。 わたしは少々悩んだが、いったん家に帰って、帽子をかぶってから出直すことにした。 えっちらおっちら自転車をひいて歩くこと20分。いつも歩いている繁華街から1本外れた路地に入ると、こんな街中だと言うのに新築一戸建ての住宅がひしめいていた。 新開発されたての路地という感じで、周囲の背の高いビルに日の光が遮られているのに、新しい家独特の白壁が変に明るい。開発も半ばだろうか、ところどころ、昭和の面影が残った住宅も混じっていて、ちぐはぐな雰囲気だ。しかも、休日だというのに、人っ子1人見当たらない。 こんなところに、本当に自転車屋さんなんてあるんだろうか……。 心配しながら歩いていると、突然わたしの目の前に、なんと言ったら良いだろうか……近隣の家から苦情が寄せられそうな……俗に言う「ごみ屋敷」みたいな家が、眼の前に現れた。本来住居と呼ぶべき建物は、新開発から取り残されたような、古いモルタル壁みたいなタイプの二階建ての住居だ。しかし、二階の窓のカーテンは暗く閉ざされ、一階は見える限りでは洗濯洗剤やハイターや
ブログを書こう!と思い立ったのが2013年、大学一年生の頃。 気がついたら大学時代が過ぎていて、2017年。 長いような短いようなこの4年の間で、私を取り巻く状況や世相も随分変わった。 個人的にはこの4年間で長い文章を書いた経験は課題として出されたレポート執筆と好きなラジオに向けたお便り投稿くらいで、文章を書くモチベーションが上がることはなかった。何と卒論すら書いていない。卒論代わりに、と思って書いた1万字のレポートは、破綻した論理をゴリ押しで書き通したので(自覚はある)読めたものではない。だいぶ怠けたものだと思う。 書く方は怠けるだけ怠けた。読む方はと言えば、実はそちらも熱心に取り組むことはなかった。ただ、人の話を聞くのが好きになった。どんなに難しい書評、文学理論の本を書いている人でも、実際に話を聞きに行けばだいぶわかりやすい。話すこと、聞くことは、形而上学的な思想を現実に還元する窓口だと思う。話を聞きに言った後に著作を読むと理解の度合いが断然変わる。この人の話が好きだと思ったら、例え別の大学であろうと潜りに行った。読むより聞いて、メモをして、好きな理論は頭の中に勝手に残ってくれるだろうと思った。東京はそれを可能にしてくれる場所だった。 ただ話を聞くだけではなく、その話に対して自分が考えたささいな疑問や主張を短い文字数でまとめるのも楽しかった。だから、授業のコメントシートはラジオのようで毎回ワクワクした。次の授業の始めに、数百人の学生の前で自分のコメントシートが読み上げられると、僅かな承認欲求が満たされる。教授は私の顔も知らないけれど、内容を評価してくれている。この距離感が心地良かった。 つらつらと言い訳を書いたけど、ここで一旦まとめたい。大学時代は色々な話を聞くことに徹した。楽しい体験だったし、今後も続けていきたいと思っている。でも、これからはちゃんとアウトプットしていきたい。論理的な長い文章を書いていきたい。インプットしたものは、アウトプットしないと頭の中に残りづらい。twitterや読書メーターでちまちま書いた短い文章は、頭の引き出しにしまうには濃度が薄すぎて役に立たない。 というわけで、下手なりにもっと更新していきたいと思う。 (恐らく誰にも読まれないであろう)抱負でした。

偶然の一致

偶然の一致って、よくあるものです。 私はよく試験監督のアルバイトをしますが、それは大抵長時間突っ立って監督をしてなければならないもので、その時間を退屈と感じてしまう人にとっては苦痛でしかないものでしょう。実は苦痛にならないのには秘訣があるんです。 例えばあなたは試験監督でドアの前に立っていますね。当然試験受ける人は座っているので、教室全体を見渡すことができます。教室の収容人数はだいたい100人ちょっと。さて、ぼーっと眺めていると、何か法則のようなものを見えてきませんか。あれ、赤色を着ている人が多いのが見えません?しかもあの服とあの服同じじゃない?うわ、あそこなんて隣同士同じ幅のボーダー着てるよ…。 とまあ、同じような洋服とか、バッグとかって結構あるものなんですよね。UNIQLOやギャップなどブランドものが台頭しているこのご時世、全く珍しいことではないのです。が、実際に目の当たりにしてみるとこんなに多いんだ、となるわけです。 まあそれは置いておいてとりあえず、これを偶然の一致と呼ぶとします。英語ではcoincidenceのひとことで済んでしまいますが、ムラカミハルキはこの「偶然の一致」が好きなようで、彼の小説の中にはよく見かけるキーワードです。奇跡や運命、なんて言葉ほど大げさではないけれど、偶然が重なり重なり奇跡や運命が生まれるのだ、と考えるとこういう偶然の一致って、奇跡や運命の入り口みたいなものなんじゃないのかしら、とわたしは思うのです。それに気づくためにも、常日頃アンテナをはっていることってだいじなんじゃないかな。

ぽりぽりぽりぽり

イメージ
実は最近はまっていることは、歩き食べです。 行儀悪いんですけどね、家近くのコンビニで買ったクッキーをぽりぽりつまみながら歩くのがマイブームなのです。おおっぴらに食べるのは少し恥ずかしいので、マフラーで顔を隠しながら少しずつ…ぽりぽりぽりぽり 。人が通り過ぎても気にしない!…ぽりぽりぽりぽり。 小さい頃から行儀悪いよ、と教えられてきたことを少しずつ破るのが楽しいからだと思います。19歳だけど、駄目なのはわかってるけどお酒を飲むのが楽しかったのと同じ感覚です、たぶん。ぽりぽりぽりぽり。あと、歩きながらってとこがポイントです。座ってるとどうしてもああ…またカロリーあるものを…とついつい罪悪感感じますからね。 それに……食べ物って、外で食べると倍に美味しく感じるものですよ! ちなみにはまってるのはナチュラルローソンのマクロビオティッククッキー。健康志向のあっさり味なんですが、後を引く味のものばかりで困っちゃいます!蓬なんてもう、本当に蓬味がするんですよ!(←当たり前)おいしいのは間違いないのでぜひお試しあれ〜

私の好きなカフェめもめも

東京出てきてカフェのチェーン店多くてびっくりしました。読書や考えごとする時にカフェなんてうってつけですよね、そのお店にもよるけど。というわけで私は長居させてくれて、かつ長居のための工夫がしてあるお店が好きです。あ、長居できなくても良いので近々星乃珈琲店のパンケーキとかも食べてみたいなぁと思ってます。 上島珈琲店…お店の雰囲気が好き。かかる音楽はジャズ、内装基調はウォルナット、明るすぎない暖色の照明。これぞ珈琲店。珈琲も美味しいです。リラックスして座っていられるので嬉しい。 ゾッカコーヒー…あんまり色んなところにないけど綺麗なラテアートで有名なお店。紅茶も含めてだいたい全部美味しいけどわたしのオススメはソイラテ。私のいくところは心置き無く長居させてくれる。混んでくると申し訳なくなるけど。かなりのヘビーユーザーなので週に何回か同じ人を見かけたらそれは私。 エクセシオールカフェ…見た目普通なのに椅子の座り心地抜群でびっくりする。コンセントがついてるとこが多いのでノマドさん(仕事でパソコンぱちぱち打ってる人)が多いような気がする。私が行ったところはたいてい分煙甘かったのでもうちょっとちゃんとして欲しいかなぁ。 スタバ…なんで人気なんだろうって考えると多分メニューの多さとコーヒーの味なのかなと思う。座り心地良いソファ置いてくれてる場所もたまーにあるけどインテリアはあんまり凝ってないんじゃないかしら。よく混む。みんな好きだね。 タリーズコーヒー…実はここの珈琲あんまり好きじゃないけどクッキー好きです。キャンディトフィークッキー。癖になります。あとソイクッキーも素朴な味がたまりません。結果、必然的にコーヒーも飲みます。

暦に寄せて。

昨年の冬のことです。 受験勉強に追われていた私にとっての大晦日は、いつも通り塾に行って、冬季講習を受けて、夜10に帰宅し、夕飯を食べて、お風呂に入ってからは授業の復習。そのまま就寝。のはずでしたが、何か大晦日らしいことしなきゃな、と思い、家族と紅白歌合戦の最後の方とゆく年来る年を見て年を越しました。 その時ふと気がつきました。わたしが大晦日に何もしなければ大晦日って普通の日と変わらない単なる一日なんだなぁ、と。 一旦それに気づくと何か漠然とした大きな何か、太刀打ちできないなぁ、っていう何かに対する恐怖を感じます 。考えてみれば私が何の意識もしなければ一日一日は何の変化もない単なる一日です。ひょっとすると一日を一日と意識しなければ(そんなことありえないけど)世界ってただ回って行くだけですよね。 本当は実際そうなんだけど、人間がそれに今日と昨日っていうベクトルをつけて、それを表すために数字があって、暦というものがある。それが文化というもので、文明になって、今に至ると。何の変化もない自然に法則を見出して人間のものにする、っていうことはヨーロッパとか日本とか関係なく本能的なもの(わたしが感じた漠然と大きなものに対する恐怖とか)に基づいたものなのかも。暦考えた人天才。と、いうより人間て天才。 「君たち、花の名前なんて知らないでしょう。綺麗なフジが咲いていても目もくれない。植物に興味を持って見ましょうよ。その名前を知るだけでなんていうかなぁ、豊かになる。人間にとっての意味って差異なんですよ。植物の名前を知れば、あの花とこの花は違うってことがわかる。それとね、暦を知ることも差異をつけることなんです。昨日と今日は違うってわかると時間は一回性のものだって、一回きりしかないんだって気づくことができる。そうすれば一日を大事にできるでしょう。   この差異ってものはね、名前なんですよ。人間が世界を細かく細分化する。そのコードが名前なんだよね。逆に言えば世界は色んな名前で細分化されているんだってことを、より広く、深く知ること、これが大学での学びなんですよ。」 日本文学研究の授業で教授からこの言葉を聞いた時、あ、これだ、と思いました。 そして(そうか、大学で学ぶ知識ってその分だけ豊かに生きるってことに繋がるのかもな)としみじみ感心してしまいました。 知識に限らず色

外を歩く時気がつくこと

お店の前を歩く時入り口から漏れ出すクーラーの涼風に涼しいなぁと思わず立ち止まりますが、建物に据え付けられてる室外機の温風浴びるとこの分温暖化が進んでるのかな、と思っちゃいます。